浄念寺の歴史について

浄念寺(じょうねんじ)は山口県宇部市厚東の棚井(たない)というところにある浄土真宗本願寺派のお寺です。

 

山号は寿光山(じゅこうざん)といいます。

限りない「寿」(いのち)と「光」(ひかり)の仏さま、阿弥陀さまからお名前いただいたものであります。

 

ここでは、厚東の郷土史研究会の沖金吾先生のまとめてくださいました資料より抜粋しまして、浄念寺の歴史をご紹介させていただきます。

 

少し難しい文章ですが、お寺にはより詳しい資料も置いてございます。

 

 

1.創建の由来


 大内氏の随身(家来)であった吉見彦左衛門将監という者が出家して法名勝願と改め、長府の功山寺で学び、後に厚東末信にあった東光寺に移っていたが、上京して本願寺八世蓮如上人に帰依した。

 文明十四年(一四八二)、勝願は帰国して棚井村の上片山にあった禅宗の古跡を改めて浄土真宗として開創した。

 その後、浄念寺は現在地の台下の旧厚東川べりに移転したが、この地は厚東川の氾濫で水難を度々被るため、台上の現在地に移動した。この三度目の移動の年月は明らかではないが、江戸時代の初期と思われる。


2.浄念寺の創建に至るまでの時代背景


 厚東氏が滅亡して約一二〇年後の文明の時代(一四八〇年頃)は応仁の乱によって国土も寺院も荒廃していた。

 厚東氏の時代は仏教が盛んであったが、寺院が没落してからは人々は信仰の対象を失ってしまった。

 では何故、この時代の寺院が没落したのかということは、当時の寺院の壇主は武将かその地方の一部の権力者のものであった。このため戦乱によって武家が倒れるとたちまち寺院は衰微し廃寺になる場合が多い。しかし、一般大衆が檀信徒であったならば、戦乱や政変があっても、その寺院は多数の信徒によって護持される。しかし、厚東氏の時代には後の浄土真宗のような宗旨の寺院は存在していなかった。

3.厚東における寺院の変遷と浄念寺


 前述したとおり文明の頃(一四八〇年頃)には、真言宗や禅宗の寺院は壇主を失い没落してゆく乱世の中で、本願寺蓮如上人の浄土真宗の布教活動により、厚東氏時代の真言宗や禅宗寺院はつぎつぎと浄土真宗に改宗するようになった。

浄念寺の歴史年表